2-5 横浜と生糸

2-5 横浜と生糸


 1859年に横浜港が開港してから生糸が最大の輸出品でした。

最大の輸出国となった理由としては、欧米圏に蚕の疫病が流行ったこと、中国ではアヘン戦争、内乱があったことなどが挙げられます。

横浜の名勝となっている三溪園を造った原富太郎は、かつて世界遺産になっている富岡製糸場を所有・経営していました。富太郎は、良質な繭を買い込み、良質の生糸を輸出することにより、富岡製糸場は黒字転換しました。昭和7年(1932年)には最新新鋭の繰糸機械を導入したことで、最高売上を達成しました。

また、かつての横浜北部・西部では養蚕が行われ、収穫した繭は二俣川村(現:旭区)や中和田村(現:泉区)瀬谷村(現:瀬谷区)などの製糸工場に運ばれ生糸となり、横浜から輸出されました。養蚕技術や製糸機械の向上により生産は昭和初期まで増加傾向にありましたが、戦後はナイロンなどの新素材の発明により、姿を消していきました。


神奈川横濵新開港圖

繭作り

生糸