判断

判断

 

言葉に対する解釈は、ほとんど人それぞれで

一致しません。

それでは、何をどう伝えられるかなのですが、

伝えようとすることを、そのままに受け取って

貰えることは、ほぼありません。

みな少しづつズレて、ちょっとづつ色合いを

変えて受け入れる のです。それを体癖的な

感受性と言い換えられますし、人は

自分が思うように解釈するものだとも言え

ます。

それでどうやってイメージを共有して熱狂的に

集団的な行動になるのかという問題が出てき

ます。

そこでイメージが物語化されるのです。

象徴的な物語となる事 で個々のイメージの

差をそのままで受け入れる大きなルツボの

ような容れ物として機能するのです。

「正確」という事は、ほぼ無い

とも言えます。

数学的な正確さも、いわば物語なので

色々の前提の上で成り立 ってます。

とすると、人は生きている限りあらゆる局面で

「判断」をしな ければならないのですが、どう

転んでも「正確」に判断は出来ないのです。

どちらに進むのが正しいのか

解らないままどれかを選ばないとならないと

いう時、何が可能なのかというと、その時

その場の要求の方向に添うということ なの

です。

後々考えたり、似たような状況になっても、

もうその時点では 少しも合わない、けれど、

その時には確かにそうした方が良かったという

方向性の正しさのみが唯一の判断になるの

です。

このような判断力を養うことが生きることの

最大の目標です。

しかし、このような即興性を伴なう判断は

また、あるタイプ の人たちは苦手でもあり

ます。

自分自身にある種の「取り決め」があり、この

取り決めが判断のための指針になっています。

本来はどちらにするか判断の方向性を定めた

上で、ではどう自分なら動けるかの判断の助け

として取り決めをしたのに、次第に取り決めが

判断の上を行くようになって、即応性を失って

しまうのです。

それが持ち味ではありますがそれが「頑固」に

まで固まらないように気をつける事も

大切になります。