わたしについて
はじめまして。みうっちゃ(みう)と申します。
早速ですがわたしのこと、特にヨガとわたしの関わりについて書いてみますね。
けっこうな長文なので、お時間のある時にでものんびりと読んでいただけるとうれしいです。
わたしがヨガを本格的に始めようと思ったきっかけは、持病の不整脈が改善したことでした。
不整脈は、ひどい時には心拍の4回に1回くらい脈が飛んでいて、歩くのもしんどいくらいでした。
当時通っていたスポーツジムでは筋トレも有酸素運動もできなくなり、唯一できそうだったヨガに参加してみました。
すると終わった後のスッキリ感が何ともいえないくらい気持ち良くて、毎週通うようになりました。
そのおかげでしょうか。1年後の経過観察で心電図が正常値に戻っていました。
その後もヨガを続けていくうちに、ある壁にぶつかりました。
それは、自分のとっているポーズが果たして正しいのかどうか、スポーツジムのグループレッスンでは教えてもらえないことでした。
ちょうど同じ頃、父が末期がんで亡くなりました。発覚から半年というあっという間のできごとでした。
それまであまり身近な人の死に触れたことがなかったわたしは、全てが耐えがたい体験で「死」というものがすっかり怖くなっていました。
そんな中、ある有名なヨガの先生が死生観について語ったコラムを読む機会がありました。
ヨガをやれば「死」の受け止め方が変わるかもしれないという期待がふつふつと沸きました。
「正しいヨガのポーズを知りたい。ヨガの哲学を学びたい。」
それならいっそのことヨガの資格を取得してしまおうと思い、指導者養成スクールに通うことを決意しました。
仕事を続けながらの通学は決して簡単ではありませんでしたが、2年越しでなんとか最後の模擬レッスン実施というところまでこぎつけました。
その間自然とヨガとの向き合い方に変化がおこり、ヨガをを仕事にしたいという気持ちも生まれていました。
それなのに最後の最後で股関節を傷めてしまったのです。
模擬レッスンでは自分でポーズをとることができず、声の誘導だけでなんとか乗り切りました。
幸い資格を取得してスクールを卒業することはできましたが、怪我をしたことでヨガを仕事にすることに関しては自信を失っていました。
それでもとにかく新たにスタートを切るしかないと、まずは股関節を治すことに専念しました。
ところが何をやっても全然痛みがなくならず、いっこうに脚を開くことができません。
早く働かなくてはという焦りと生来の不安症が顔を出し、精神的にも追い詰められていきました。
やがて股関節どころか全身に痛みを感じるようになっていました。
自律神経も乱れ、痛み以外の気味の悪い症状も出てきました。寝入りに頭の中で爆発音が起こったり、夜中に突然呼吸が苦しくなって飛び起きる、といった具合です。
更に焦ったわたしは、何かに取り憑かれたかのように西洋医療から代替医療、身体から心、魂に至るまで思いつく限りの手段を試みました。
1回きりのものもあれば、ある程度継続的にやったものもあります。
自分自身でも勉強して、資格を取得したものもいつくかあります。大学で心理学も学びました。
まさに病を治すために人生を送っていた感じです。とてもしんどい毎日でした。心から楽しいと感じたことなどありませんでした。
数年かけてもがき続け、限界灘を何度も超えたあたりで突然そんな毎日が心底嫌になり、あるときふと立ち止まりました。
すると一瞬風のようなものが吹きました。
心が初期化されたような感覚がありました。
そしてもうこんなことを繰り返すのはやめようと思いました。
おもしろいもので、やめてから少しずつ変化が生じました。
やめたと言ってもヨガだけは続けていました。といっても今どきの一般的なポーズをとるヨガはできるわけもなく、もっと原点に近く、動きの少ないシンプルなヨガをやっていました。
すると、だんだん心と身体がゆるんでいくのを感じました。
根拠のない自信と、わたしは大丈夫という安心感が湧いてきました。
やがてずっと悩んでいた症状は静まり共存しています。
不思議な体験でしたが、今ならその理由がわかります。
心身の不調と向き合いながら毎日続けたヨガは、わたしにたくさんのことを教えてくれました。
今ではヨガのない暮らしは考えられません。
そして、養成スクールを卒業した時とはまったく別の思いでヨガを届けたいと感じました。
いや、届けたいなどおこがましいことは言えません。わたしもまだまだひよっこです。
これまでわたしが体験してきたこと全てを宝物として、みなさんとヨガを惜しみなく共有していきたいと思っています。