山川菊栄


戦前・戦後を通じての女性解放運動家。大正期以来社会主義婦人論の論客として、母性保護論争、婦人部論争などで論陣をはった。戦後は、1947年の労働省設立と同時にうまれた初代労働省婦人少年局長を務めたのち、月刊誌『婦人のこえ』を1953年から1961年まで主宰。翌年、71歳にして、石井雪枝、伊東すみ子、菅谷直子、田中寿美子、渡辺恵美とともに婦人問題懇話会を設立。1978年から初代代表となって後進の育成に努めた。


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 生誕125周年記念シンポジウム「山川菊栄が描いた歴史」(2015年11月)の記録


■ 神奈川県立図書館内山川菊栄文庫OPAC

最近、『山川菊栄・山川均写真集―イヌとからすとうずらとペンと』が刊行された。

山川菊栄記念会・労働者運動資料室編、
同時代社刊、2016年3月





■ 日本で婦人解放という言葉が使われたのはいつごろからか。私がそういう言葉をみたり聞いたりたりしたのは、明治四〇年四月、今の竹早高校の前身である東京府立第二高女を卒業してからまもなくのことだったが、それ以前には聞いたことがなかった。平塚らいてう氏が「青鞜」の発刊で新しい女の旗上げをしたのは明治四四年九月のことだと覚えているが、その平塚氏に聞いてみても、婦人解放という言葉がいつごろから使われ出したか覚えがないということだ。

ところが最近出た堺利彦全集第三巻一三〇頁「婦人問題概観」(「直言」明治三八・四・二三第二巻第一二号)の「三、婦人解放、社会主義という項の初めには「西洋には婦人解放(エマンシペーション・オブ・ウーマン)という言葉が行なわれている。(略)この婦人を解放せねばならぬというのである。」

私は「直言」が出たころ、まだ一四歳そこそこの女学生で、そういう出版物のあることすら知らなかったが、今思うと「婦人解放」という言葉が日本で使われたのはこれが初めてではなかったろうか。そして日露戦争直後の日本には、自由主義、自然主義、社会主義と新しい思想が洪水のようにあふれ出し、古い権威に対する批判がもえあがった中に、婦人解放という言葉もまた、無意識のうちに若い女性の心を強くとらえたのだった。

イプセンの「人形の家」の反訳が出たのも日露戦争直後のことであり、松井須磨子が有楽座でヘッダ・ガプラーを演じたのも明治の末か大正の初めだった。それらの、女性がめざめて自己を主張するいわゆる婦人解放劇を見た人たちの感想の中に、「日本の女性はあんな風に筋道をたてて理屈をいう、または論理的な話をしない。日本の女が、日本語でいう現実の会話と、婦人解放劇のヒロインの主張する言葉の内容とはあまりかけ離れていて不自然で、ピンとこない」というのが相当あった。半世紀後の今はどうか。婦人の弁護士もできれば代議士もでき、半世紀前には想像もできなかった多くの種類の、そしてレヴェルの高い職業に婦人が進出し、多彩な活動をすると同時に、発言の内容も著しく豊富になっているのを見る時、誰しもこの半世紀が人類にとって、婦人にとってどんなに大きな意味を持っていたかを思わずにはいられまい。もちろんそれは問題の解決を意味せず、ただかつては例外的な少数先駆者の戦いのおたけびにすぎなかったものが、今日では、婦人大衆の一般的な要望であり、常識的な、平凡な要求と認められるほど強く、広い基盤を持ち、それだけ運動の目標が明確となり、具体的となり、解放へ前進していることを認めさせずにはおかない。(略)

<山川菊栄「婦人解放とは」『婦人問題懇話会』14号、1971年、『社会変革をめざした女たち』(2001年)再録26-27ページより>
*段落の行あけは、サイト掲載時に行ったものである。